H本兄君がトイレにこもった日から、毎日、24時間、
私は店からの電話に、びくびくする日々を送っていました。
あの日から、3日後、H本弟君と深夜勤に入ることになりました。
その日は、夕方から大雨が降り出し、大急ぎでレインマットを敷きました。
伝達ノートには、昼勤のクルーさんから、
"化粧品コーナーに埃がたまっていましたが、掃除できませんでした。"
との申し送りがあったので、羽箒と布巾で棚を掃除していました。
当店は港に近く、店に面した街道は大きなトラックやトレーラーが
一日中、通行しており、入口近くの棚は、埃が溜まりやすく、
毎日、気を付けて掃除をしていました。
H本弟君は、0時からのシフト入りだったのですが、
3分くらい前に、「こんばんわー。」と駆け込んできて
バックルームに入ってゆきました。
それから間もなく、
「てんちょおー。」
と大声でバックルームから私を呼ぶ声がしましたが、
「はーい。」
と答えたまま、棚の掃除をしていました。
H本弟:「てんちょおー。」
何だよ、今、忙しいんだけど。
荷物の入荷までに掃除を終わらせたいんだけど。
「てんちょー。」
すぐ近くでH本弟の声がしました。
しゃがんで、棚の一番下の段の商品を取り出して、棚の奥を拭いていた私は、
声のする自分の体の右側の床を、ふと見ました。
黒い靴下が見えました。
えっ?
靴下?
ん?
靴は?
ひい、親指出てる!
左足の靴下の親指部分が破れて、
親指がにょきっと飛び出しています。
驚いて見上げると、両手に靴を持って、靴下のままで床に立っています。
JJ:「どうした?靴下破れてるよ!
なんで靴、はかないの?」
H本弟:「靴下じゃなくて、靴がおかしいんですー。」
いや、靴下もおかしいよ、指出てるよ、怖いよ。
JJ:「靴がどうしたの?」
H本弟:「今日、いっぱい雨降ってるから、お母さんに車出してもらおうと
起そうとしたんだけど、起きなくて
ゆすっても、大声だしても起きなくて、
歩いてきました。
けど、歩きにくくて、
なんか、体が変になりそうで、
靴がおかしいんです。
店長、見てください。」
JJ:「えっ、お母さん、起きないって大丈夫なの?」
H本弟:「仕事で疲れてるんじゃないですかねえ。
朝になったら、起きるんじゃないですかね。」
本当に大丈夫なのか?
兄弟の母親はパートを3つ掛け持ちして、働いていると聞いていました。
過労死とかないだろうな。
JJ:「兄君は?家にいるの?
ちょっと、お母さんが心配だから、
電話してみてよ。」
H本弟:「自分も、起きないから心配だったけど、
遅刻したら、店長に、怒られるから
一人で歩いてきました。
ほめてください。」
なに?母親に何かあったら、私のせいなの?
H本弟:「それより、靴みてくださいよお。」
靴がおかしいってどういう事なのか。
H本弟:「どっちが右で、どっちが左か
わからなくなったんです。」
えっ?幼稚園児なの?
差し出した靴は、黒の布製のスリッポンでした。
普通の靴は左右があり、つま先が内側に少しカーブしていて
判別がつくものだと、私は常識的に認識していました。
手に取り、見てみると、言われたとおり、
なんだか、変なカーブでどっちが右か左かわかりませんでした。
私も、一瞬パニックになり、左右を入れ替えて持ってみたり、
底を見たり、中の表示を見たりしたのですが、
不思議な形をしています。
ピーナッツのような形なのです。
JJ:「こっちが右かな、いや、左かな、え、こっちかな?
とりあえず、こう履いてみて。」
と履かせてみたのですが、
どちらを右にして履いても、
つま先が外側を向いてしまいのです。
うーん、わからん。
この靴なに?どうなってるの?
H本弟:「ほらね、店長、おかしいでしょ。
歩きにくくて、
これって、俗にいう
"初期不良"ってやつですかね。」
絶対、違うよ、言葉間違ってるよ。
布が擦り切れているところあるのに、初期?
JJ:「どれくらい、この靴履いてるの?」
H本弟:「3年くらいかなあ?」
JJ:「3年も経ったものは、初期ではないよ。」
H本弟:「えー。靴履くと、歩きにくいんで、
今日、履かなくていいですか?」
はあ?
JJ:「靴下で仕事するの?親指出てるよ。」
H本弟:「ほんとですね、
なんか違和感あると思いました。
ホッチキスでとめます。」
JJ:「えっ、靴履かないとか絶対ないんだけど、
危ないし、お客さまが靴履いてないとびっくりするよ。」
H本弟:「この靴履いた方が、危ないですー。
夜、お客さん、あんまり来ないし、大丈夫ですよー。」
JJ:「靴はいてください。」
H本弟:「いやです。」
JJ:「靴はいてください。」
H本弟:「いやです。」
うーん。
H本弟:「雨でぬれたし、気持ち悪いんで
乾かしたいんですー。」
JJ:「じゃあ、お客さま来たら、履くのね?」
H本弟:「朝ラッシュには履きます。」
うー。
と言って、H本弟君はバックルームの入口の壁に
おかしな形の靴を立てかけました。
この靴、乾くと正しい形になるのかな。
裏で、H本弟君は椅子に座り、片足を膝に乗せて
ホッチキスで靴下をとめていました。
親指が出るくらいの穴が開いているので、
なかなかうまくふさがりませんでした。
H本弟:「むずいな、これ。
店長、裸足はダメですか?」
JJ:「ダメです。裸足でリーチインとか寒いと思うよ。」
H本弟:「ですよねー。」
JJ:「着替えの靴下とか持ってないの?」
H本弟:「ないです。
お母さんが送ってくれると思ってたんで、
濡れるとは思ってませんでした。」
はあ。仕方がない。
私は、ロッカーから自分の財布を取り出し、
JJ:「靴下、私が買うから、その靴下はもう、あきらめよう。
売り場行こう。」
とH本弟君を靴下売場へ連れていき、選ばせました。
H本弟:「ほんとに、どれでもいいですかー?
うれしいなー。」
と言って、底がパイルで厚く補強されたスニーカーソックスを選びました。
H本弟:「コンビニの靴下って、割高ですよねー。
ダイソーとかだともっと安いのにー。」
買ってもらって文句を言うな。
新しい靴下に履き替えたH本弟君は、
「てんちょおー、この靴下ふかふかですー!ひゃっほー!」
と言いながら、床を滑ってふざけたりしていました。
本当に、朝まで靴下で仕事をしていました。
朝まで、靴を履きませんでした。
H本兄弟の母親が心配だった私は、兄君に電話をかけて、
母親の様子をみてもらいましたが、
いびきをかいて眠ってるとのことで、本当に、
疲れて眠っているようなので安心しました。
朝ラッシュが終わり、退勤時に、H本弟君は靴を履いて帰りましたが、
やはり、つま先は左右とも、外側を向いていました。
後日、兄君に聞くと、弟君は幼いころから、
左右を、間違って履いていることが多く、
だんだんと靴が変形してゆくのだそうです。
そうして、変形した靴が玄関に何足もあるそうです。
なにが、初期不良だよ。
おはなしは、つづきます。